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瀧谷昇の活動実績

アフガニスタン義肢装具支援1

Q:瀧谷さんが、義肢装具の製作に携わる当初の思いをお聞かせください。

 

小学1年生のときに太もものケガをして骨髄炎という病気になり、3年生まで入院しました。

10回以上の手術を経験し、中学1年生のときにようやく完治しました。

しかし、治療期間が子供の成長期と重なったため、数回もの手術の影響で、病気になった右足は、成長スピードの違いから左足が長く、右足が短くなったのです。

そのため、右足に装具を取り付けて足の長さを合わせました。

当時、作ってくれた義肢装具士がとてもカッコよかったので、憧れを感じて「義肢装具士さんになりたい!」と思いました。

また、僕は幼い頃に父母を亡くしたので、学校に行くのは難しいだろうと子供ながらに分かっていました。

仕事として義肢装具士というのは面白そぉ~、やってみようと思い、将来の仕事にしたいと決めたのです。

 

アフガニスタン義肢装具支援2

Q:義肢装具士について、詳しく教えてください。

 

僕が、この仕事を始めたときは、戦争後で手足を無くした人の義手や義足を作ることが沢山ありましたが、近年は、障害のある人のための義肢や、骨折やケガによる治療用の装具やサポータなど、動きの補助をする装具全般を製作しています。

どの義肢や装具も、使う人に合わせて、それぞれオーダーメイドで作り上げます。

また、最近ではチェアスキーや陸上競技のスポーツ用義足などの作製もしています。

義肢は、無くなった手足や、身体の動きの補助の一部に装着して、身体の役割を代用するものなのです。

 

アフガニスタン義肢装具支援3

Q:義肢装具士のやりがいについて、聞かせてください。

 

どんな職人さんでも同じだと思いますが、使う人のことを考えて、満足がいく製品を作ることです。

装着する人のオーダーを聞きながら、より精密な製品を作るために、具体的な情報を探し出すことが、よい製品つくりには欠かせません。

身体の状態を把握するだけでなく、どのような生活や仕事をおくっているのかという、社会的状況を把握することが大切なのです。

 

アフガニスタン義肢装具支援4

Q:アフガニスタンに対する義足の支援活動を始めたお話を聞かせてください。

 

僕が義肢装具の職場に就職して7年目のころ、国際協力機構(JICA)から職場にアフガニスタンで義肢装具の製作技術を教えるため、装具士を派遣してほしという依頼があり、僕が派遣されることになりました。

1974年に国際協力機構(JICA)の専門家派遣員として初めていったことが、きっかけとなりました。

僕はアフガニスタンに技術支援に行ったのですが、その反対に自分のこれからの人生観に気づかされ強く心に残ったのです。

アフガニスタンは、日本とは発展の違いがありますが、みんな家族とともに豊かな落ち着いた自由な生活をおくっていました。

僕は、こう思ったのです、「仕事や技術を優先するよりも家族を重んじる」という人生の真理を教えられたのです。

アフガニスタンの国に恩返ししたいと思いを抱いていた僕は、52歳のときに兵庫県の神戸でアフガニスタン支援をしている女性の紹介で、孤児の女の子に義足を製作することになったのです。

何もしなければ変わらないので行動を起こすことにしたのです。

僕は、この体験からアフガニスタン支援を始めるきっかけとなったのです。

 

アフガニスタン義肢装具支援5

Q:アフガニスタンでの支援活動を詳しくお聞かせください。

 

2002年、「アフガニスタン義肢装具支援の会」を設立し、支援組織として動き始めました。

義肢は、装着する人の体型にあわせて製作するので、現地で型取りして一度日本に帰国して、奉仕活動の学生さんと約3ゕ月かけて12〜13本を製作し、現地に戻って微調整をして装着していきます。

その際に、他の人の分の型取りも一緒におこなうのです。

3ゕ月ペースでアフガニスタンに届けているのは、それ以上間隔をあけると、健康状態の変化や発育などにより、せっかく製作した義肢が合わなくなる心配があるからです。

今までに、約320本の義肢を製作して届けたと思います。

義肢は、製作して装着すれば終わりではないのです。

何らかの影響で体型が変化することもあり、子供の場合は発育しますから、数ゕ月〜数年の間にメンテナンスをしたり、製作し直すこともあります。

そのため、継続的に経過観察が必要で長期にわたる支援が大切なのです。

また、我々の活動がメディアなどで報道されると、使わなくなった義肢が届いたり、資金面で支援してくれる一般の人や団体があり、我々の活動に同じ志をもっている人がいることは、とても嬉しいかぎりです。

 

アフガニスタン義肢装具支援6

Q:これからの目標と活動

 

支援活動は、自身から率先して行動することが大切だと考えます。

我々の活動を期待して待っている人がいる限り、これからも継続したいと思っています。

今までの活動では、資金の支援もあり、義肢装具の製作支援も約200〜300人となりました。

日本の支援者の多くは、義肢装具士を学んでいる学生さんです。

学校授業で勉強するのとは違い、実際に装着する人の顔が見える義肢の製作に携われることは、自身にとっても学びになると、継続してくれています。

今の青年も、誰かのために貢献したい気持ちを持ち合わせているのは、嬉しいことです。

これからの日本もまだまだ明るいかもしれない。


森田茂の活動実績

モンゴル支援活動1

※ 2001年9月15日:日本鍼灸マッサージ新聞より

ボランティア医療活動でモンゴルへ

孤児院にカルシウム剤を贈呈・新聞社とTV局が取材に

日本・モンゴル東洋医療交流会(モンゴルの子供を助ける会)代表:山本勝行

 

2001年に、日本・モンゴル東洋医療交流会・体表:山本勝行、現在のNPO法人 World Harmony・副理事長:森田茂先生、その他3名は、モンゴル国名誉領事からの要請を受け、ボランティアとして1週間の予定でモンゴルへ旅立ちました。

モンゴル支援活動2

まずモンゴル国について簡単に説明しましょう。

1921年から70年間〈モンゴル人民共和国〉として社会主義国であったが、1990年、民主国家として生まれかわり、現在のモンゴル国となりました。

地理的には中国・ロシア・カザフスタンに固まれた北東アジアに位置し、国土面積は日本の約4倍、人口は238万5千人で、人口の70%を35歳以下の若年層が占め人口密度は世界一低く、首都ウランバートルは海抜1350m。

全土には21県あり、言語はハルハ・モンゴル語であり、宗教はチベット仏教を信仰している。

教育は3・5・2 制。

平均寿命は女性が約62歳、男性約59歳である。

乳児死亡率が高く、救急医療が遅れているのが原因では?

モンゴル支援活動3

※ 石田光江 理事(フットプリント作業風景)

2001年8月11日(土)

関空よりモンゴル航空にて快晴の中、首都ウランバートルのボヤント・オバー国際空港へ。

4時間30分の空の旅で到着。

空港で出迎えて下さったのは佐藤名誉領事、国立整形外科病院のシャルグダルスレン副院長、整

形医のニヤムフー医師、そして通訳が3名の計6名でした。

 

2001年8月12日(日)

病院は休診なのでモンゴルを知る為にと、自然史博物館へ。

夜、明日からの医療活動の打ち合せ、鍼、もぐさ、足底板、衛生材料の点検等の準備をする。

今回持参したのは、足底板200足分、鍼3000本、もぐさ300g2箱、テーピングテープ40本、千年灸業務用2ケース、カット綿500g2箱、エタノール1本、その他にスパイラルテープ、パステープ等の治療具、その他カルシウム剤180錠入り150個、シャツ20枚である。

モンゴル支援活動4

2001年8月13日(月)

8時40分より、国立整形外科病院(8階建て)にて、副院長をはじめ25名の医

師と佐藤名誉領事を交えて約1時間の意見交換会をする。

この病院の入院患者は約400名。

交通事故による外傷、骨折、落馬による骨折、先天性股関節脱臼、火傷、喧嘩による怪我等が多く、中には喧嘩により斧で頭を割られ言語不能、半身不随の患者をみた。

午後より診療開始。

各先生が自分の得意な手技、治療により患者を診る。

患者の多くは外傷や変形治癒、先股脱、腰痛症、高血圧、頭痛等である。

中には我々の専門外の疾患の相談等、忙しいが全力の治療が出来た。

モンゴル支援活動5

2001年8月14日(火)

今日は朝9時より治療を行う。

治療室まで来られない重症患者の為、2名の先生は各病室を回る。

残りの3名で治療を続けるも患者は、途切れることなく押し寄せてくる。

昼前に2名の先生が帰ってきて5名必死に治療を続けるが患者は途切れない。

30分程の昼食の後、午後の診療である。

治療室の前には長蛇の列が出来ている。

中には車で6時間かかって治療に来た患者もいて治療に力が入る。

 

モンゴル支援活動6

※ 森田茂先生の治療風景

2001年8月15日(水)

今日は午前のみが治療予定である。

昼になっても患者は途切れず昼食抜きで2時迄するも患者が残っている。

心引かれる思いで治療を打ち切り、副院長及び6名の各部長と懇談、医療機器や衛生材料の不足を訴えられる。

懇談後、国立孤児院へ約1時間の移動。

孤児院には280名が収容されており、栄養不良による発育障害児、クル病等による脚の悪い孤児達20数名を治療。

カルシウム剤、千年灸を贈呈して帰路につく。

 

2001年8月16日(木)

朝からモグサの原料であるヨモギを探しに、約1時間程走り、山間部のチェルト村を訪れたがヨモギは見つからなかった。

村の人に聞くとモグサと同じ様に用いる草があると聞き、その草を探し、見本として数本持ち帰ってきた。午後はチンギス村へ移動。

故 小渕元首相も訪れたゲルと云うテントを見学し、我々もそのゲルに泊まることとなる。

4時頃到着し乗馬の予定であったが、冷え込みが強く、息も白くなる程で又風も強くなり、乗馬を取り止め、ゲルの中でストーブにあたり、馬乳酒を飲みながら時間を過ごす。

夜10時頃、夕焼けが非常に美しくロマンチックな気分となる。

又曇っていた空も満天の星空となり、こんなに星が近くてきれいなのは初めてである。

でも外は寒く2℃~3℃であろう。

 

モンゴル支援活動7

2001年8月17日(金)

午前中、私立のロベルト孤児院を訪ね、孤児達及び孤児院のスタッフの治療を行い、カルシウム剤と千年灸を贈呈。

治療風景をモンゴルの有力新聞社とTV局が取材に来られ、インタビューを受ける。

夕方、厚生省にて、ソドノムビル政務次官(予定では厚生大臣であったが、日本より来ておられるODA〈政府開発援助〉の皆様との懇談会があり不可)、シャルグダルスレン副院長、ニヤムフー医師らと会談。政務次官よりモンゴルの厚生省もバックアップするから、ぜひ続けてきてほしいとのお言葉を頂く。

又日本側も団体にして国立整形病院と提携をしてはどうかと提案される。

我身は日本に帰り、領事と相談して希望に添える様にしたいと返事する。

会談後、我々は国賓級の扱いなので、迎賓館へと向う。

迎賓館で、モンゴルの最後の晩餐を取りながら、副院長、ニヤムフー医師らと楽しい話に花が咲いた。

その席で病院には70名程の医師がおり、今度モンゴルに来るときにはセミナーをやってほしいとの要望が出された。

その後、これからの活動について、熱く議論し、まず団体にする為の名前を考える。色々の意見が出たが、「日本・モンゴル東洋医療交流会」と云う名前に決める。

モンゴルの子供達は本当に素直で素朴である。「なんとかしてあげたい」「出来る人がしてあげる」当然の事だ。

皆同じ気持ちで熱く、熱く語り合い、夜が更けていった。

この1週間で約280名の患者を診たが、病室の回診、頭蓋骨の骨折、骨折の変形治癒等、日本では、診ることの出来ない患者を診ることが出来て大変貴重な体験となったモンゴルのボランティア活動であった。

この活動に大変お世話になった佐藤名誉領事、シャルグダルスレン副院長、ニヤムフー医師、通訳の3名の他、ボランティアで手伝って頂いた歯科大学生のチャサンさん、ソロンゴさんと云う歌手(日本でもシングル盤を発売、ツムラの宣伝歌も歌っている)の方々に心より御礼申し上げます。

今回活動して頂いた先生方、及びモンゴルの子供を助ける募金活動をして頂いた先生方に厚く御礼申し上げます。